モラリスト×エキスパート(ゾロサン)


 耳障りな音が弧を描いた。ステンレスのボウルが床に落ち、泡立て器だのゴムベラだのが後を追うように落ちていく。しかし意識はその音よりも、腕を掴む熱い手に持っていかれた。調理台に押しつけられた上体は圧迫感を訴える。粗暴な扱いに頭の中が白くなり、急速な展開に体がついていかなかった。背中を押さえつける手に抗い、振り返ることの出来ない体を揺さぶる。
「てめェ、ゾロっ」
 衝撃が、呼吸を困難にさせていた。思いもしなかったぜえぜえとした己の呼吸にサンジは唾を飲み込む。十分な酸素を得られずに繰り返す呼吸は、荒いまま静まることはない。そんなサンジの様子を見てゾロは笑うでもなく、ただ押さえつける力を強めた。
 ――‥どうしてこうなった。
サンジの視線は調理台の下に落ちたボウルと、見事に零れたディップへと向かう。


 サンジはこのホテルの専属シェフで、ゾロはどこかの大学の研究者。学会があるとかで、ここ一週間このホテルに滞在している。小さなホテルではあるが高級感があり、値段も安いわけではないので泊まっているゾロたちも少しは名の知れた大学の人間なのだろうとサンジは思っていた。そして、自慢じゃねェけど、と、毎度必ず前置きをするのだが、サンジはこの世界でも大分名の知れた料理人だ。この小さなホテルが4つ星と言われる理由に、大きく貢献しているほどには。
 二人の出会いは取り立てて珍しいものじゃなく、客と従業員という単純な括り。どこにでもある、客がシェフに賛辞を送るという簡単な一幕にゾロが和食は作れるのかと尋ねたことがきっかけだった。フレンチが有名なホテルのレストランで聞くようなことかと、同行していた教授は呆れた表情をしていたが、サンジは慌てもせずにお夜食が必要でしたらお持ちいたしますと、営業スマイルで微笑んだ。幾分、胡散臭い笑顔だったかと後に反省したが致し方ない。普段男にスマイルなんぞ見せない性格で、しかしそれでも、ホテルの経営者である可愛らしい友人に、うちのホテルの評判落とすような対応だけはしちゃダメよと、数日前に釘を刺されたばかりだった。それで、和食というか、夜食にぴったりのおにぎりとお茶を部屋まで運んだらいたく気に入られてしまって、同年代ということもあってかサンジもゾロを邪険にはしなかったというのが二人の"知り合い"の始まりである。
 客と従業員の一線は表面上引き、それでも馴れ合った友人のように過ごす数日はお互い思ったよりも心地のいい空気だったはずだ。少なくとも、サンジはそう思っていた。だから今夜も自分の聖域であるキッチンにゾロを招いてやり、学会でのスピーチが成功した祝いに年代物のワインを開けてやったのに。フランスパンにつけようと作ったグアカモーレが悲惨な状態で床に飛び散っている現状は、サンジの心をひどく沈ませている。怒るより先に、理由を知りたい。
 ゾロはゾロで、はっきりと、自分の置かれた現状を把握していた。どうしてこんな行動を取ったのかも承知済みだった。2杯ほどのワインで酔うような柔な体じゃない。同じだけ飲んで、普段より饒舌になっていたサンジの体のことまではわからないが。そう、わからないのが問題だった。たった一週間でこの男のすべてがわかったわけではない。それが一連の行動を起こさせる原因となった。


「おいゾロっ、離せ!」
 打ち付けた箇所の痛みが引いたのか、サンジは容赦なく暴れだす。しかしゾロはそれを易々と封じ、嫌なこったと耳元で囁いた。返された言葉に奥歯を鳴らし、てめェふざけんのもいい加減にしろと低く唸る。いまだにサンジの中には、どうしてこうなったという思いがぐるぐると回っていた。学会の最終日を無事終え、明日ここを経つ客と言う名の友人への簡単な餞をと考えただけだった。なにが気に入らなかったのか、話の途中からこんな事態に陥っている。とりあえず、きつく掴まれている腕を離して欲しい。
「こんな乱暴な扱いされる覚えねェぞ!何のつもりだっ…」
「うるせェ」
 会話にならないやり取りに、サンジの怒りも徐々に露になる。黙ってこんなことされてるほどいい子ではない。たとえ、客と従業員という立場であっても。しかし如何せんやつの体が密着して、それと、ひどく強い力で押さえつけられていて身動きが取れないという事実にも直面している。
「クソ、てめェ、こんなことしていいのか、おい、人としてっ」
「あァ?」
モラリストなんだろ、てめェ」
 サンジが思い出したのは、ゾロが研究している分野のことだった。一緒にいる教授がよくモラリストという言葉を口にして、一度、ゾロのこともそう言っていたのを聞いたことがある。今回の学会は人間行動学的に権威のある学会でなんたら、それをゾロがなんたら、彼はモラリストとしてのなんたら、なんたらの部分が多い事は割愛。女性以外の言葉なんて、サンジもそう細かくは覚えていない。
道徳心の欠片もねェ行動しやがって!モラリストが聞いて呆れるぜ」
 モラリストと言うからには、道徳だのモラルだの、人としてこうあるべき良い行いとか、ああもうクソ難しい面倒なことは置いといて、とりあえずこーゆーいきなり乱暴するだとか、人道から外れた行いをするのはいけないんじゃないかとサンジは言いたいらしい。しかしゾロはそんなサンジの言葉を鼻で笑った。
「バカだなてめェ」
「あァ?」
モラリストってなァその分野を研究してる人間のことを言うんだよ。世間一般の道徳ってやつを研究すんのがおれの仕事だ」
 モラリストは道徳家じゃねェんだよ、耳に落ちる声、吐息までかかる近すぎる距離でサンジの熱は上がる。肩越しに振り返り睨み付ければ、やつの口元は笑っていた。声にならない音が喉奥から漏れる。腕は強く握られたまま、背中を押さえつけていた方のゾロの手が衣服を掻き分けてシャツの中に侵入した。身を捩っても僅かな抵抗にしかならず、その手は奥へ進む。
「非道徳的な行いも躊躇わねェ」
 言葉が切れると同時に、サンジの首筋に生ぬるい感触が走った。





朝のついーとから派生した、某大広告モラリスト×エキスパートで妄想。たぶん、サンジを全部知りたいのにお別れ会みたいなことされて悔しかったんだと思うのゾロ。