虫歯の話(ゾロサン)


 侵入してくる舌先が熱を持っていて、サンジは僅かな隙間から息をこぼした。しかしそれもすぐに遮られ、ぴったりと重なり合った唇は呼吸を許さない。ゾロの手はサンジの項に伸び、逆の手は腕ごと腰を抱いている。サンジはと言えば、口内を侵し歯を撫でるぬらりとした感触に意識を持っていかれそうになりながら、こうなった経緯を頭の中で思い返していた。



「てめェはいっつもいっつもあれだ、無愛想すぎてクソだな。ウマイとかマズイとか言ってみやがれ。マズイっつったら蹴り殺すけどな」
 買い出しから戻ったサンジは甲板で寝こけているゾロを見かけた。いつも通りゴミでも見るような視線をくれてやってから存在を無視してキッチンへ直行したが、サンジが戻る音を夢おぼろに耳に入れていたゾロは数分後サンジの元を訪れた。そして開口一番にメシとだけ言ってその場に座った。他のクルーが街で食事を済ませてくることは承知していて、ゾロが船番で昼飯を待っていることも承知して戻ってきたのだからそれは別にいいのだ。気に入らないのはその物言いで、毎度のことだがサンジの機嫌はマイナス方向に落下する。軽い手さばきでゾロの腹が満足するような食事を拵え、一方で口は喧々囂々、礼儀を欠くな思いやりの心を持て淡水植物、ぶつぶつ言いながらの作業も今さらではない。そんなサンジの作った食事をゾロはなにも言わず黙々と食べ続け、最後にごちそーさんとだけ言うのもいつものことだ。そして、それに対するサンジの反応が上記の言葉に繋がる。
「だいたい毎回毎回当たり前のようにメシが出てくることに感謝もしねェような男になんでおれがこんなクソうめェメシを、」
「おい」
 サンジの言葉を遮ったゾロは、湯呑みに目配せしてからサンジを見た。この期に及んでとカウンターテーブルを拳で叩き、ゾロの視線を怒りで遮断する。
「人の話ナンにも聞いてねェのかてめェ!」
「おい」
「自分で煎れろ。知るか」
「てめェ虫歯あんぞ」
「急須に湯注ぐだけ、……あ?虫歯?」
 聞き慣れないガキ臭い単語に表情が追いつかず、口を開けたままゾロを見る。ゾロの視線はサンジの口元に行っていて、なんとなく居心地の悪さを感じてサンジは口元を隠した。
「あるわけねェだろ、歯なんて痛くねェよ」
 舌を奥歯や前歯で噛んで確認しながらもごもごと言う。眉間に皺を寄せたままゾロへの視線は逸らさず、ゾロもサンジが隠している口元への視線はそのまま。見てやるからちょっと口開けてみろと、なんだか意外なことを言うゾロに、やはりサンジの腰は落ち着かず居心地の悪さが増した。
「ねェよ」
「てめェがさっきからバカみてーに大口開けて喋ってるときから見てんだよ、おれァ」
「あァ?勝手に見んな!」
「虫歯あんじゃねーか」
 思わず大口開けて怒鳴ったサンジに、ホラ見ろと指摘するゾロ。またババッと口を両手で覆ったサンジはそれでも幾分神妙な表情を覗かせている。料理人に虫歯なんてあってはならぬものだ。口内のほんのちょっとの違和感で味なんていくらでも変わってしまう。ゾロの言っていることが本当だとすれば、これは由々しき事態。街で食事中のチョッパーを至急船に戻さねばと考えるくらいには大事件である。
「仮にあったとして、痛くねェってこたァすぐ治んのか、これ」
「そのぐれェならうつせばすぐ治る」
「なに言ってんだ。虫歯がうつるわけねェだろが」
「てめェこそなに言ってんだ。虫歯がうつんのは常識だろ」
 昔、それこそ10年はさかのぼる昔に、サンジは一度だけ虫歯になったことがあった。手際の悪い町医者に抜かれた歯はまだ乳歯で、麻酔と言って打たれた注射からしてすべてが痛みだったのを覚えている。虫歯になったら抜くか治療しなければなくならない。サンジはそう思っていた。いや、今でも思っている。感染したら消えるなんてそんな手品みたいな面白いものじゃないはずだ。疑わしきはゾロだが、こんなくだらない嘘をつく理由はない。
「誰かにうつすことだな。まだ痛くねェならすぐ治る」
 腰を上げたゾロはサンジのそばへ来ると、まだ茶葉が入ったままの急須を手にした。先ほどまで火にかかっていたやかんは注ぎ口から僅かに湯気が出ていて、今さら沸かしなおす必要はないとふんだゾロはやかんのお湯を急須に注ぐ。大きく湯気を立ち上らせてこぽこぽと聞こえる音は、この秋島の冬季節にはひどく情緒があるように思えた。やかんの傾きを戻すと隣に立っていたサンジがやかんを受け取る。まだ口をもごもごと動かしながら。
「……虫歯か…」
「なんだったらおれがもらってやってもいい」
「あ?」
「礼儀を欠くなっつったろ。メシの礼だ。どうする」
 思いもしない申し出だ。申し出というか、この事態すべて思いもしなかったことではあるが、痛みを伴わなくても虫歯がなくなるかもしれないなんて都合のいいものが転がってるという展開に出くわしている。うーんと口先を尖らせひと唸り。いまだ虫歯がうつるというのは半信半疑なのだが、チョッパーに見せて削ったり詰め物するような痛い思いをするくらいなら、歯を抜かれようが折られようが痛いなんて言葉口にしないだろう目の前の男に被けてしまえば本当に本当に都合がいいのだ。しかもこの男がそれを自分から買って出る、こんな都合のいいことはそうそうない。
「い、いいのかよ」
「……あァ、構わねェ」
 なら頼む、そう言ったと同時にゾロの手がサンジの首根っこを掴まえる。そのままグッと引き寄せ、サンジが瞬きをする間もなく唇を塞いだ。そんな経緯。


 サンジが顎を引けば必然的に唇が離れ、二人の間に微かに見える白い息が冷えた冬の空気を強調した。こんな風に唇を重ね合わせるのは別に初めてではなく、だからと言ってしょっちゅうしてるというわけでもない。ただ、幾度か、そうなったことがあるだけだ。それに伴う感情云々もお互いの中でいいように解釈されている。
 ごくりと喉を鳴らしたサンジは唇に手の甲を押し当てながらゆっくりと顔を上げた。口内にはまだ、舌の感触が残っている。
「虫歯…」
「気になるんだったら見てくりゃいいだろ」
 ゾロは湯の入った急須を手にし、湯呑みの前に戻ると腰を下ろした。二煎目の茶はちょうどいい頃合いだろうかと、サンジはぼんやり思いながら肩を竦めて室内を横切る。扉のノブに手をかけると背後で茶をすするゾロを一度だけ振り返ってから外へ出た。
 外へ出れば室内よりも冷たい風がひんやりとサンジの体を包み込む。中も外も寒いのは変わらないが、やはり内側はそれなりの暖が取れる。後ろ手に扉を閉めたサンジは、胸ポケットの煙草を探った。歩むと同時に一本だけ抜き出して口元へ。ふと、自分が外へ出た理由を思い出してそれを改める。出したばかりの煙草をしまい、丸まった背を正すように深く深く呼吸をした。
 唇は冷たい。けれど口内はまだ熱く、思い出そうとしなくてもあの感触が蘇る。荒々しさも誘ってるようなねちっこい感じもなくて、ただ、熱くてもどかしいだけの。サンジは少しだけふくれっ面で、尖らせた唇の先をふにふにと指で摘んだ。男部屋の入り口の側、色分けされた歯ブラシを一瞥して鏡を見る。うっすらと頬が赤く染まっていた。寒さのせいだ、誰に言うでもなく自分に言い聞かせるように呟くと、あーっと大口で鏡を覗き込む。奥歯にも前歯にも、もちろん右にも左にも虫歯は見当たらない。ああ本当にゾロにうつっちまったんだなーなんてのと、あいつはウマイだのマズイだの言わなくてもメシは残さねェななんて思った。それと、いただきますとごちそうさまを、作ったサンジに必ず言うことも。口を閉じてぼんやりと、虫歯を被ってくれたゾロのことを想った。



 冗談だと言う機会すら失くしたゾロは案の定ダイニングでため息をついていた。歎息なのか、それとも茶を飲んだあとの"ほっと一息"なのか定かではないが、前者の方が確率は高い。それと、ありゃあ本物のバカだな、なんて気持ちもあるのかもしれない。実際、虫歯がキスで移るわけがないのはゾロだって知っているし、サンジがあそこまで鵜呑みにするとは思っていなかった。引きどころを掴み損ね、あれよあれよという間に自分が虫歯をもらう段取りがついてしまった。
 それともうひとつ、サンジに虫歯なんてないというのもため息の理由である。ただ、嘘ではなく冗談で済ますはずのことが思ったより長引き、唇を重ねるような結果になったことにため息は隠せない。真相を話せば完全に"嘘つき"呼ばわりだ。今ごろサンジは鏡を見て虫歯がなくなったと思ってるに違いない。そりゃそうだ。最初からないものがあるはずないのだから。
「……クソッ…」
 また面倒なことになったと頭を掻くが、それを起こしたのは自分である。誰を非難するわけにもいかない。ゾロは何度目かのため息をついた。と、ほぼ同じくらいにガチャリと扉が開いた。視線の先にはやはりサンジで、先ほど出て行った時と変わらずそこに立っている。虫歯はどうだったなんて聞けるような心持ちでもない。サンジから逸らした視線を湯呑みに戻したゾロは、軽い舌打ちをすると湯呑みの中をずずっと飲み干した。次になにか言ってきたら、とりあえず虫歯は嘘だと言おうと決めて。
「ゾロ」
 なんだ、と、相手の声にかぶさる様に声が出た。変に切羽詰った感丸出しの声に、サンジも首を傾げる。
「なんだよ」
「なんでもねェ。それより、おまえこそなんだ」
「あー…、その、な、」
 もごもごと口ごもるサンジはあーだとかうーだとかいらない声を発していた。しかし普段ならイライラして先を促すゾロも、今はその先を待っている。サンジはちらりとゾロを見て、咳払いをひとつ。あのな、と少し小さな声でぼそぼそと続けた。
「さっきの虫歯、返せ」
「……あ?」
「いいから返せ。おれが治す。チョッパーの治療はおれが受ける。自業自得ってやつだ」
 だからそれ返せ、俯いたまま側へ来る。座ったままのゾロを見下ろして、それでも前髪に隠れたせいで表情は読み取り難い。耳の仄かな赤さを都合よく考えていいものかとゾロは思った。まぁそれも、唇を重ねればわかることだ。ほんの数秒前までサンジに対して抱いた罪悪感のようなものが、目前の吉事のせいでそっくりと消え去っている。さっきの虫歯は嘘だったなんて、このキスが終わってから白状すればいい。ゾロは重なる唇に笑みさえ零した。







なんとなく終われたと思っておわり。麦茶さんと袴田さんが虫歯ネタしてたときに思いついたけど、すでに歯医者ゾロがサンジを診察椅子に固定するという話になっていたとかいないとか…